FoxconnやHTC、ASUSに代表される製造業中心国家だった台湾に、近年、Google、IBM、MicrosoftといったAI分野で圧倒的な存在感をみせる企業が開発拠点を次々と立ち上げている。
AI先進国へと変貌を遂げようとしている台湾で注目を集める研究者の1人が、台湾発のAIスタートアップ「Appier」でChief AI Scientistを務めるMin Sun(ミン・スン)氏だ。
ミン・スン氏は、2014年から2017年まで、台湾で理系の名門として名高い国立清華大学で准教授として活躍した。
アカデミックの世界で数々の功績を残しているミン・スン氏。大学教授としての順風満帆な未来を投げ打ち、なぜ激動のスタートアップ業界で挑戦することを決めたのか。
本稿では、AIに魅了されたミン・スン氏のこれまでの歩みと、スタートアップで挑戦する決意の裏側に迫る。
第8回目となる今回のテーマは「Innovation Beyond Borders」。世界各国でのAI活用トレンドや、日本のAI業界における課題や勝機などを多角的に議論します。具体的な事例を交えつつ、業界最前線のゲストにたっぷり語っていただきます。
偶然から始まった、AI研究者としてのキャリア
ミン・スン氏は、絵に描いたようなエリートコースを辿ってきた。台湾国立交通大学を優れた成績で卒業し、渡米。スタンフォード大学の修士課程を修了した。
その後、ミシガン大学で博士号を取得し、ワシントン大学に博士研究員として在籍。その過程で、Google Brainの創始者の1人で、AIの第一人者であるAndrew Ng氏や、Google CloudにおけるAI、機械学習研究のトップを務めたFei-Fei Li氏と出会い、共同でプロジェクトを行なった。
台湾に帰国してからは、台湾国立清華大学で准教授に就任し、数々の論文で最優秀論文賞を受賞してきた。学術分野で華々しい経歴を築いてきた彼とAIの出会いは、大学院進学までさかのぼる。
今ではAI分野における最高頭脳の1人となったミン・スン氏だが、大学時代は半導体基盤の設計者を目指し、勉学に明け暮れていたという。
「出身地が半導体の生産地として世界的に有名だったこともあり、大学では漠然と基盤設計者としての道を進むのだろうと考えていました。そのため、大学を卒業し、新たな学びを求めて渡米したときも、専攻希望は半導体分野のままでした。
ですが、半導体分野を学んでいる学生はアジア人しかいなかったんです。新しいことを学んでいるのは確かでしたが、台湾にいるのとそう変わらない環境であることに危機感を覚えていました。
そんななか、たまたま目にとまったのが機械学習でした」
ミン・スン氏がスタンフォード大学院に入学した2005年当時、機械学習はほとんど認知されていなかったという。
だが、機械学習はミンスン氏が求めていた、台湾にはない新たな学びそのものだった。
「統計学的には不可能だと言われていたことが、機械学習では可能になる。つまり、機械学習は『不可能』を『可能』にするアルゴリズムなんです。
私が目指していた基盤設計者の仕事を代替できる可能性がある技術を目の前にして、半導体を学び続ける気にはなれませんでした」
数ある機械学習の技術分野のなか、画像認識はとくに魅力的に見えたとミン・スン氏は語る。
今でこそ大きな注目を集めている画像認識だが、2005年当時には深層学習を用いた高精度なモデルは存在していなかった。
そんななかミン・スン氏が取り組んだ研究は、1枚の2D画像から3D画像を生成する、「3D reconstruction」と呼ばれる研究だ。
彼はこの研究をAndrew Ng氏と進めるだけでなく、Y Combinatorからの支援を受け、スタートアップを立ち上げるに至っている。
シリコンバレー発のシードアクセラレーター。シード段階のスタートアップに対し、投資したうえで事業開発指導をおこない、数多の企業を成功へ導いたことで知られる。主な投資先にDropboxやAirbnbがある。
「1枚の2D画像から3D画像を生成することは、当時は困難でした。物理の観点から見るとわかるように、奥行きには2点からの観測が必要だからです。
ですが、人が経験で理解できる奥行きを、機械学習で再現できないはずはないと信じ、実現までこぎつけました。
後にも先にも、これほど印象的な研究はありませんね」
充実した研究生活のなか、秘めていた思い
大学院卒業後は、Andrew Ng氏の紹介を受け、Fei-Fei Li氏のもとで博士課程を過ごし、ワシントン大学で博士研究員として研究を続けた。
AIに注目が集まるようになってからは、企業や大学から引く手数多だったという。長いアメリカ生活の末に、ミン・スン氏と同じく、台湾出身の女性と結婚もしていた。
しかし、ミン・スン氏は9年間の海外生活のなかで秘めていたある思いを行動に移すため、長いアメリカ生活に終止符を打った。
「アメリカで学び始めた当初から、学んだものを台湾に還元したいという思いを抱えて過ごしてきました。2014年、AIに関する研究がにわかに盛り上がり始めたことをきっかけに、その思いは焦りに変わりました。
今ならまだ、台湾も世界と戦える。そのための技術を伝えるため、帰国を決意しました」
台湾に帰国して間もなく、ミン・スン氏は自らの故郷にある国立清華大学に、准教授として招かれた。
研究者に必要なのは、肩書きよりもデータ
故郷に戻ったミン・スン氏は、准教授就任初年度からCVGIPにおいて最優秀論文賞を3年連続受賞するなど、精力的に活動を続けながらも、大学生の教育にも力を入れていた。
正式名称 Computer Vision Graphics and Image Processing
台湾国内で開催されているコンピュータビジョンの研究会議。毎年、約200本の論文が採択され、そのうち3-5本が最優秀論文賞に選ばれる。
2014年から2017年の間に30本以上の論文を発表し、なかには1000回以上引用された論文もある。
だが、ミン・スン氏は1つの経験を通してスタートアップで働く魅力を感じ始めていた。
「2017年の夏、Appierの創業者で、旧知の仲でもあったChih-Han Yuからサマーリサーチプログラムの招待を受けました。
長年私の教え子たちを支援してくれていたこともあり、参加を決めたのですが、その時に感じたスタートアップ特有のスピード感がとても心地よかったんです。
ビジネスにおける研究は、アカデミックの研究とは異なります。短期間で、中・長期的なビジネス活用を描きながら研究していく必要があるため、アカデミックとは違う楽しさがありました」
「膨大な量の生きたデータに触れられるビジネスの現場は、研究室よりも輝いて見えました。これ以上の環境は大学では再現できないと感じ、スタートアップへの参画を決めました。
研究者には、肩書きよりもデータが必要なんです」
“It’s not true that you can only do great things in the US.”
機械学習との偶然の出会いから始まったAI研究者としての道。AIが日の目を見ない時代から研究を続けてきた彼を支えたのは、新しい学びへの飽くなき探究心だ。
彼は、研究の場を大学からスタートアップへと変え、肩書きにとらわれない、研究者としてもっとも必要としているものをどのように得ていくか行動で示している。
AIの研究者として重要なのは、大学で教授という肩書きを持って研究することではなく、研究に必要なデータがありつつ、自分が誇りに感じる場所で研究できるかどうかだ。
最後は、ミン・スン氏とのインタビューで印象的だった言葉で締めくくりたい。
“It’s not true that you can only do great things in the US.”