人間の脳とAI(人工知能)を融合させる取り組みが世界中で注目を集めている。人間の脳は、我々にとって非常に身近にあるブラックボックス。これまでは「推測」の域を脱しきれなかったが、現在では推測から「計測」に進みつつある。
脳とAIが融合するとどうなるのか。2021年8月末に実施したレッジ主催のウェブセミナー「Ledge.ai Webinar」に、脳科学や神経科学の知見とテクノロジーを掛け合わせる有識者が登壇し、今後より注目すべきAI分野のひとつとしてディスカッションイベントを開催した。
本ウェブセミナーに登壇したのは、株式会社マクニカ AI Research & Innovation Hub/ BRAIN AI Innovation Lab. プリンシパル 楠 貴弘氏、東京農工大学 グローバルイノベーション研究院 教授 田中 聡久氏、InnerEye Ltd. sales director 篠原 文枝氏の3名。
マーケティング、医療、人材活用の分野での活用に期待が集まる
本イベントの冒頭では、マクニカの楠氏から脳科学とAI技術を掛け合わせた最先端の研究について説明があった。
楠氏が属するマクニカは2021年7月に、脳科学とAIを組み合わせ、オープンイノベーションを通じた新たな付加価値の創造を行い、その社会実装を推進していくための組織「BRAIN AI Innovation Lab. 」(以下、BRAIL<ブレイル>)の設立を発表している。
同社では脳科学とAIを融合させたこの取り組みを「Brain-AI」と名付け、さまざまな社会課題を解決し、豊かな未来を実現するためにサービス開発や運用を進めている。本稿でもこれに倣い、脳科学とAIの取り組みをBrain-AIで表記していく。
まず、Brain-AIを実現すると何ができるのか。楠氏は次のように話した。
「人材評価や組織マネジメント、医療、マーケティングなどさまざまな分野にBrain-AIは有効だと考えています。
たとえば人材評価では、職種を決める際に面談やペーパーテストなどで人員配置などを進めることが一般的です。しかし、面談やペーパーテストだけで適正をはかりきることは難しいはずです。このようなケースでBrain-AIを組み合わせると、ペーパーテストを受けている最中の脳波を計測し、本人でさえも自覚していない最適な職種を見出せる可能性があります。
医療分野においては、広島大学やMeiji Seikaファルマ、そしてマクニカの産学連携によって、『うつ病予防DX』の社会実装を目指し、研究を進めて
また、製造現場における目視検査でもBrain-AIの活用は有効的です。製造業では、出荷前に担当者が目視で製造した物を確認する作業があります。この目視は“匠の技”と言えるほどのものですが、属人化しやすい作業のひとつです。そこで属人化を解消するため、熟練者の脳波を測定し、AIと組み合わせて目視検査をアシストするようなことも可能となります」
ただ、脳に関する分野だけあって、通常のAIの実装と比べてハードルが高そうに感じる。しかし、楠氏は「全体的な導入フローは通常のAIと大きな違いはない」と話す。
「Brain-AIを進めるには、まず課題や目的を整理し、脳波を測定。そして取得したデータを分析および可視化します。その後、運用するプラットフォームやハードウェアにAIを実装するという流れです。大きな流れは、通常のAIの実装と大きな違いはありません。
しかし、脳波を扱うため、脳波データの取得方法や、脳波ならではの前処理の方法、そしてAIのモデル化など、通常のAI実装だけにとどまらない脳科学への知識が必須です。
Brain-AIを進めるうえで最もやってはいけないことは、『課題や目的を具体化せずに開始する』ことです。それこそ、簡易な測定デバイスを購入し、脳波を計測して進めようとしている場合は、良い結果を得づらいです。脳波のデータを取得したにもかかわらず、『これが何を意味するのかわからない』という状況に陥りやすいためです。
これは一般的なAI実装でも言われることですが、全体像を見るグランドデザインが本当に重要なのです」
Brain-AIを活用する際の3つのポイント
最適な脳波測定手法の選定が重要
テレパシーによる会話を実現する可能性も秘める
ここからは、東京農工大学 グローバルイノベーション研究院 教授 田中 聡久氏、InnerEye Ltd. sales director 篠原 文枝氏の両名にも参加いただき、Brain-AIに関して気になるトピック紹介や視聴者からの質問への回答をした。
最初に「脳波を扱うBrain-AIは、ざっくりと言えば音声認識AIのイメージに近い」と田中氏が説明した。後述するが、田中氏は2004年より東京農工大学で、ブレイン・コンピュータ・インタフェースや医療脳波診断のAI化に取り組んでいる。
「Brain-AIは、脳から取得したデータを活用する、データサイエンスのひとつだと思っています。普通のAIと異なるのは、楠さんからの紹介にあったとおり、データの計測部分です。
脳波データを計測し、AI的な処理を施しますが、イメージとしては音声認識のAIと近しいもの、と捉えていただくとわかりやすいかもしません。音声認識AIでは、音声をマイクに入力すると音波なので波形をデータ上で表示できます。この波形をニューラルネットワークのモデルやトランスフォーマーなどにいれることで言語に変換する、というのが最近の音声認識AIの簡単な流れです。
Brain-AIの実装においても、脳波の波形データを取得し、この波形データをAIとしてモデル構築していきます。ただし、音声認識AIと異なるのは、音声の場合は大量に取得が可能でデータベース化が可能ですが、脳波はビッグデータになり得ない点です。脳波は計測に手間がかかることはもちろん、計測するデバイスによっても取得できるデータ内容が変わってしまうのです」
また、セミナー中には田中氏に対して視聴者から「脳波とAIを組み合わせた技術が発達したら、テレパシーによる会話は可能になるのか」と質問が寄せられた。これについて、田中氏は次のように話す。
「可能性の話だけをすれば、原理的にはテレパシーによる会話は実現できるかもしれません。
しかしながら、現状では脳波を取得するには、頭部にデバイスを取り付けて脳波データを取得しています。ただ、頭蓋骨は非常に厚みがあるため、『脳内で思い浮かべた心の声』をキャッチできるほど精度が高くありません。
また、脳内で思い浮かべたことをアウトプットするだけでなく、テレパシーでの会話であれば聞き取る側のインプットも考慮する必要があります。無線で相手に心の声を伝え、認知させたり聴覚に流し込んだりする必要があります。アウトプットやインプットも加味すると、現状ではテレパシーによる会話は難しいです」
そして、イスラエルのブレインテック企業InnerEyeの篠原氏には、「製造業における異常検知などでBrain-AIを採用する際、従来のAIと比べてどのような優位性があるのか」と質問が投げられた。
「製造工程などでの目視検査をAIが担う場合、AIの実装時には『OKデータ』と『NGデータ』を学習させて作る流れがありますよね。AIを構築する際に、現場で実際に作業される方がAI作成のための学習に直接携われば良いのですが、多くの場合はAIの担当部署の方がAIに各データを学習させています。ただ、実際に現場で担当されている方と比べると、正確さに欠けるなど、現場での実情と徐々に乖離するケースもあります。
弊社(InnerEye)では、AI開発における“学習”の段階で、脳波データを取得するウェアラブル計測デバイスをAIを実装したい企業の現場担当者に着用してもらい、デバイスを装着しながら通常の作業に着手してもらっています。脳波データを現場の担当者からリアルタイムで取得することで、学習のために別途作業時間を確保する必要もなく、現場の担当者ならではの実際のデータを取得できるようにしています。端的に言えば、アノテーション業務を脳波がカバーするイメージですね」
続けて、篠原氏からは、過去に空港でのセキュリティチェック(手荷物検査)で実験したところ「目で見ている物と、脳が意識していることは異なっていた」という話を紹介してくれた。
「以前、空港での手荷物検査において、検査官の方が画面に映っている映像に意識が向き続けているか、脳波で測定する実験を実施しました。この実験に参加した検査官は非常に優秀な方でした。
実験中、その検査官の後ろで『別の検査官と旅行者が言い争う場面』を作りました。すると、実験中の検査官は目は映像に向いているものの、脳の意識は言い争いに向いていることがわかったのです。さらに、この言い争いをさせている最中にテストとしてスーツケースに拳銃を入れて映像による手荷物検査をさせたところ、なんと見逃してしまったのです。
どれだけ優秀な人だとしても、目が向いていたところで意識も同じ方向に向くとは限らないのです。集中を阻害される外部要因は少なくありません。
そこで、Brain-AIを用いれば、集中して作業しなければいけない場面にもかかわらず、意識するべき方向に意識が向いていないとき、アラートを出すなどの事故防止も可能なのです」
最後に、本セミナーに登壇した3人から、それぞれの視点でBrain-AIについて話してもらった。
「実際に企業がBrain-AIを始めようとするとき、先にもお話しましたが、通常のAIの実装と大きな違いはありません。ただ、とりあえず脳波を測定する、というのは推奨できません。
脳波の測定は難しく、ノイズを含んでいるため前処理も必要です。そのためナレッジも重要になります。また、人間の脳から直接データを取り出すので、倫理面やデータの取り扱いは常に気にしなければいけません。
Brain-AIは今後市場規模が拡大していく領域です。ますますさまざまな分野で脳科学とAIが融合するとされているため、今後のAI実装推進においても注目のトピックでしょう」
「脳科学に関する研究では、言語活動をよみとった話があります。LSTMのリカレントネットワークをつかっていて、ざっくりいえば日本語を入れると英語で打ち返させるようなもの。翻訳と似たようなモデルをつかっていて、日本語のかわりに脳波をいれると、出てくるものは言葉になって出てくる、そんな研究がいま進んでいます。
脳波というと、言葉自体にロマンがあって、SF感があるけど、実際は脳波はプリミティブなデータです。頭の中には電流が流れており、頭の外から測った電圧が脳波なのです。頭部のいたるところに電極を貼り付けることで、うまい具合に情報を取り出し、この脳波の意味を発見し、抽出していくことがBrain-AIでもあるのです」
「脳波測定には被験者の方は特別な作業がいらないことが特長です。たとえば何かを仕分けるときも、Aボタンを押すのかBボタンを押すのかなどが発生しません。ソーティングできるのが特長で、作業に疲れてくると運動野に伝わる信号にエラーがでたときでも、脳波から直接信号をとるため、ヒューマンエラーを防ぐことも可能。今使われているAIソリューションでは越えられなかった壁を越えるきっかけになると考えています」
登壇者紹介
株式会社マクニカ AI Research & Innovation Hub/ BRAIN AI Innovation Lab. プリンシパル
楠 貴弘氏
ASICハードウェア開発を経験し、マクニカへ入社。アプリケーションエンジニアを担当後、GPU関連製品のサポートをきっかけにAIの世界へ入る。その後マクニカ初のデータサイエンティストチームを立ち上げ、2019年12月にAI Research & Innovation Hub(ARIH)のプリンシパルに就任。2021年7月にはBRAIN AI Innovation Lab . (BRAIL)を新設しAIと脳科学の融合にも取り組む。世界中の⼈々にとって幸せな未来社会をつくることをミッションにAIの社会実装加速に向けた活動を行っている。
東京農工大学 グローバルイノベーション研究院 教授
田中 聡久氏
東京工業大学で博士号を取得後、理化学研究所の脳科学総合研究センターで信号処理・機械学習の研究に従事。2004年より東京農工大学で、ブレイン・コンピュータ・インタフェースや医療脳波診断のAI化に取り組む。脳波処理では国内の第一人者であり、公的プロジェクトや国内外の大学、企業との共同研究を多数主導している。
InnerEye Ltd. sales director
篠原 文枝氏
海外営業として計測機器メーカーに勤務。液晶テレビ海外工場特注品対応を10年経験。2018年より、イスラエル投資ファンドに勤務。イスラエル ベンチャー企業の日本市場への展開を支援。2019年より、イスラエル ブレインテックスタートアップ企業インナーアイ セールスディレクターとして現在に至る。