DXの必要性が浸透し、実際にビジネスの変革に取り組む企業も増えてきた中、業界ならではの壁も見えてきた。
本稿では、小売業界の現状に迫る。小売は世界で2600兆円、国内でも120兆円を超える一大業界だ。かつて「小売を破壊する」と言われたアマゾンジャパンですら、売上額は2.5兆円(2021年)にすぎない。
しかし業界の日々のオペレーションを支える「経験と勘」は単純にシステム化できず、現場は疲弊し、人手不足で新しいことに挑戦する余裕もない……と、課題が山積みだ。
小売企業を含む500社以上にAI研修を提供する、株式会社キカガクの西沢衛 副社長と、同社の技術顧問として活躍し、一般社団法人リテールAI研究会のテクニカルアドバイザーも務めている今村修一郎氏に、小売業界のリアルと生き残る術を聞いた。
株式会社キカガク 取締役副社長 西沢衛 氏
海外ベンチャー企業で新規事業部責任者として、様々なサービスの立ち上げに従事。2018年にキカガクに参画し、2019 年に執行役員兼新規事業部責任者に就任。Microsoftやリテール AI研究会の認定トレーナーとして、様々な機械学習に関する研修を担当。オンライン学習プラットフォーム「キカガク」の共同開発責任者。2021年より取締役副社長に就任。
一般社団法人リテールAI研究会 テクニカルアドバイザー/株式会社キカガク 技術顧問 今村修一郎 氏
マイクロソフト認定システムエンジニアの資格を日本最年少で取得。
大学卒業後 P&G ジャパンにて、ビックデータ分析や機械学習関連の開発に従事し、分析チームでは日本人初の管理職に昇進。2017 年に一般社団法人リテール AI 研究会に参加し、テクニカルアドバイザーとして IT 技術を駆使した小売流通業の改革に取り組んでいる。2021 年より今村商事株式会社の代表取締役に就任。消費流通業界全体のデジタル化の推進を支援。
120兆円市場で、実証実験を抜け出せたのはたった1〜2社
――小売業界というと、「現場の経験に頼って業務効率化が難しい」「POSデータがあってもうまく活用できていない」などの課題をよく耳にします。
今村 小売業界でデジタル化やデータの活用が不十分だ、というのはその通りだと思います。
「JANコードを使って商品の販売情報を管理する」POSシステムが生まれたのは今から50年ほど前のことです。POSレジシステムが普及したのは30年ほど前ですが、当時の古いシステムや商習慣が今も残っていて、AI導入やクラウド化に対応しきれていないというのが現状です。
――DXが進んでいる企業は、小売業界ではそう多くないということでしょうか。
今村 DXをデジタル技術を活用してビジネスをトランスフォームする(運用に乗せている)状態、と定義すると、本番運用までたどり着いている企業はほぼないと思います。
実証実験まで進んでいる企業は少なくないのですが、それでも全国規模のチェーン店で数店舗、という程度です。ですので業界全体での”DXを進められている”比率はゼロに等しいといえるでしょう。
小売業界の“3つのジレンマ”
――何が足かせになっているんですか?
今村 小売業界にはマーケットの勝者がいないので、みんなどこを目指せばいいのかが分からない、なかなか挑戦できないというのがあります。
加えて、運営オペレーションに関わる人員の多さも変革のネックになっています。小売業界は世界で2600兆円、国内でも120兆円を超え、他の産業と比べると段違いの規模です。例えばイオングループの従業員は47万人。その47万人の動きをいきなり変えたり、止めたりするというのはすごく難しいことです。
業務の一部をデジタル化するのも、体の一部を違う臓器で置き換えるようなものですから、リスクが小さくありません。
――「業務を効率化しよう!」といってもすぐに手がつけられるわけではないのですね。いわゆる現場の方は、どういった悩みを持たれているのでしょう?
今村 現場では慢性的な人手不足で、普段のオペレーション以外に手を着けられていないのが現状です。
コロナ禍で飲食業界やアパレル業界が大きく落ち込みましたが、一方でスーパーやドラッグストアは売上を伸ばしました。しかし働く人の数は増えていないので、現場ではコロナ前の1.2倍は働かないと回らない。ただでさえ忙しいから、新しいことに挑戦する余裕がないのです。
西沢 本部でも、とにかく何かしなければいけない、という危機感はあるものの、どう進めれば良いか分からないという声を聞きます。最近ではDX推進室などの部門設立を考えている、というご相談も多いですね。
――業界のロールモデルがいないだけでなく、製造・卸・流通の既存のオペレーションを簡単に止められない、人手不足で手が回らない……「小売業界の変革を妨げる3つのジレンマ」ともいえそうです。
システムに詳しい人に現場を知ってもらうより先に、現場を知る人にデータ分析を教えよ
――この「3つのジレンマ」は何から手をつけていけばいいのでしょうか?
西沢 多くの企業さまのAI研修やDX人材育成をサポートしてきた中で、まず小さな成功体験を積み、社内を巻き込んでいったら成果にも結びついていく、というのがひとつのDX成功パターンのように感じます。
今村 新しくデータを取りに行くより先に、既存のデータをいかに使うかに焦点を当てたほうがいいと思います。POSシステムを使っていれば、商品の販売データは溜まっているはずですので。
「商品レコメンドをしたい」という話もよく聞くのですが、データが溜まっていない状態では精度が高いレコメンドはできません。いきなり大掛かりなシステムを作るより、マーケティングや販促に既存のPOSデータを活用してみるだけでも、新しい発見があるんじゃないでしょうか。運営オペレーションを変えるより負担が少なく、効果も見えやすいです。
西沢 大きく成果が出る一歩を踏み出すのが大切ですよね。
――既存のデータを使うのも、分析結果から施策を打つのも人です。とすると、人材育成は急務ですね?
今村 データ分析は、講座やテキストなどで学べる部分も多いですが、現場のオペレーションはマニュアル通りに動いているわけではなく、実際に体験しないと分からない部分がほどんどです。
なので、データ分析に詳しい人に現場を知ってもらうより、現場のオペレーションを知っている人がデータ分析を身につけるほうがうまくいきやすいという感覚がありますね。
エクセルでのデータ可視化など「本当に」現場で活かせる知識が詰まったデータ分析講座
西沢 キカガクでは今村さんとタッグを組んで「リテールAI検定実践講座」の研修を提供しています。
リテール分野におけるAIテクノロジー活用スキルを習得する学習プログラム。2019年から開始し、800名以上のビジネスマンが受講している。リテールAI分野のデータサイエンティストの育成を目指している。
基礎知識検定(ブロンズランク)と機能実践検定(シルバーランク)の2コースが用意されており、ブロンズランクは4.5時間のe-ラーニング講習受講後に検定試験を実施。シルバーランクは事前学習と3日間のハンズオン講義を経て、検定試験と実践計画レポートを提出したのち認定となる。
本稿で紹介する「リテールAI検定実践講座」は、シルバーランクの事前学習動画、ハンズオン講義を提供している
実際のID POSデータを使って、課題の発見やクラスタリング、需要予測など、実際の業務で使える方法や活用のポイントをしっかり学べるカリキュラムです。自分でスーパーマーケットのPOSデータを分析し、活用方法をまとめた提案書を作る、というのが研修のゴールになっています。
かなり現場目線で学ぶことができる研修でして、りんごや小松菜、キャットフードの売上など身近に感じられる題材を扱っているので、初学者でもイメージが湧きやすいと思います。
――親しみやすい題材だからこそ取り組む方もモチベーション高く取り組めそうですね。プログラミングの経験がなくても理解できる内容でしょうか?
西沢 SQLの簡単な操作や、エクセルでのデータ可視化などを織り交ぜていますが、コードをごりごり書いたり数式を読み解いたりするということはありません。
講座を通じて「データ分析ってこういうものなんだ」というイメージを掴んでいただけると思います。店舗の仕入れを決めるバイヤーさんや、メーカーの営業や商品開発部の方、小売業界に詳しくなりたいというSIerの方にも研修を受けていただいてます。
――研修というと大企業向けの内容をイメージしてしまいますが、学ぶ内容は中小の小売企業でも役立てられますか?
今村 むしろ小さいお店や企業さんのほうが想像しやすいんじゃないでしょうか。需要予測も「このお客さんはこういう買い方をしているから、こんな商品が売れる」というものですし、分析結果を現場に反映させやすいと思います。
――キカガクさんは各社の成長戦略に合わせた、カスタマイズ研修も提供されていますよね。
西沢 はい。リテールAI検定を受講してくださったあと、「全社的に取り組みたい」「部署ごと受講したほうが良さそうだな」といったご要望がありましたら、実際の課題から逆算して最適なプログラムを提供する個社向けカスタマイズ研修も実施しております。
カスタマイズ研修では、自社データを活用して研修を実施し、データ分析の内製化を図りたいというご要望や、実際に自社で活用する AI を開発してほしい、またDX推進に向けたコンサルティングをしてほしい等のご要望にも対応しております。何から始めてよいか分からないという法人様も、一度お問い合わせいただければと思います。
社員に「とりあえずデータ分析やAIリテラシーを身につけさせる」からの卒業
――既存のデータを生かして施策を提案する、という流れは実務にすぐに活かせるでしょうし、人材育成は長期目線での企業の成長につながりそうです。
西沢 DXという大きな文脈では、1つのポイントだけに絞って解決できる話ではないと思っています。経営層のマインドの変化や、データ分析をするための環境づくり、ツール導入などの複合的なものに優先順位を付けて取り掛かっていく必要があります。そしてその変革の根底となるのが人材育成ではないでしょうか。
データ分析やAI人材を○名作る、というキャッチフレーズを掲げている企業さんもいらっしゃいますが、「とりあえず」社員にデータ分析やAIリテラシーを身につけてもらうのではなく、部署や職種、業務が異なるそれぞれの方々に対して何を伝えるのかが大事になってきます。
キカガクはリテラシーを身につける基礎研修から、すぐに業務に活かせるようなデータ分析研修やPBL(Project Based Learning、問題解決型学習)まで、幅広いラインナップの講座をご用意をしています。なので、画一的な研修を実施するのではなく、A部署であればA部署に最適な、B部署であればB部署に最適な研修を、設計からお手伝いできます。この適材適所への最適な人材育成をとおして小売業界様のDX推進のサポートをしていきたいと思っています。
――ありがとうございます。リテールAI検定の今後の取り組みや抱負を教えてください。
今村 リテールAI検定をもっと周知していきたいなと考えています。SIerや中小企業の方、もちろん大企業の方にとっても幅広く使える知識なんですよ、ということを広めていきたいですね。
受講生ごとに取り組むテーマが違うので、テーマがかぶったことはほとんどありません。先ほどお話したようにペット用品のデータに着目する人がいれば、調味料やカー用品のデータを分析する、という人もいて、講座内で分析事例がどんどん溜まってきています。
手探りな中でもノウハウや正攻法が見えてきているので、受講者の方はぜひうまく“いいとこどり”をしてもらいたいです。
積極的に西洋の文化を取り入れて社会が変化した明治維新のように、デジタルと実店舗の両方の文脈を知り、データを活用できる人が増えていけば小売業も大きく進歩していくはずです。
西沢 小売業界は我々の生活基盤を支える事業です。今村さんがおっしゃっていたように、多くの方々が関係するこの業界でDXを進めていくのは、労働者・消費者どちらの目線から見ても非常に大切なことだと思っています。
皆様が本当にほしい答えや目指す姿が実現できるように、キカガクは教育者として、DXを進めるのに必要な知識・情報の提供や意思決定をサポートできる環境の提供を含め、小売業界のDXに一緒に取り組んでいければと思っております。
記事では割愛したが、小売業界のDXに必要な人材像や、社内のDX人材を増やす方法なども語っていただいた。ぜひこちらの動画も見てほしい。